酔記

美に殉死 愛の闘争

男と女

※性的描写及び暴力的描写を伴います。フィクションです。

 

第一章

 

鍋の煮立つ音が、暗い小さなキッチンに響く。塩、白菜、エリンギ、それとわずかな肉。ほとんど香りのしない湯気を、女はその大きな鼻腔に吸い込んだ。少し吐き気がするが、自分で右のこめかみを殴り、誤魔化す。むしろ殴られる痛みは女にとって快感であることを、ホルモンに関する知識からも、肉体的感覚からも、女はもう既に知っていた。

鍋の素などは使っていないので、底の焦げ跡が泡の隙間に揺れる。前回何を焦がしたかを女は人に話したことがないし、これからも話すつもりはない。焦げ跡が揺れるのを眺めながら、女は火を止めた。

 

食事前に、いただきますだの祈りだの、何らかの儀式を捧げる人は少なくない。女にも儀式は、あった。

 

鍋に蓋をし、鏡の前に向かう。小さな鏡で、歯を磨く度に、飛散した唾液や歯垢や歯磨き粉がこびりつく。隅には、よくわからない黒い汚れがあるが、それも特に気にしたことはなかった。

鏡の前に立つと、女はため息をつき、それから微笑んでみた。モナ・リザのように、優しく、コケティッシュに、微笑んだ。

鏡の中には、醜い(と女は思った)外見の男がいた。青髭に覆われ、頬や額まで脂ぎり、肩幅は鏡に入りきらない。身長は180cmを越える男が、女だった。男は生来サディストで、よく女をいたぶっては性的な満足を得た。女もそれによってしばし絶頂に達した。二人は愛し合っていたとも言えるし、だからこそお互いを邪魔に感じていた。男の好きなものは、青魚、机の脚、足の爪に溜まる塵の臭い、セロハンテープ、各種証明書、キャリーバッグ、蓮根で、毎晩湯船に浸かると、それらを順番に頭の中で並べる。並べていくうちに最初に並べたものが見えなくなるので、またゆっくりと並べ直す。のぼせるまでそれを繰り返した。

「君だね」

鏡の中の男が話しかける。女は少量の媚びをこぼしながら、俯く。

「僕は、君の瞳の色が、見たい」

女は顔をゆっくり上げる。男はまっすぐにこちらを見ている。まっすぐな、灰色に濁ったみどり色の瞳……。

突如、男は女の髪を鷲掴みにした。長く、ぼさぼさだが、艶のある、憎らしい髪。昔中学生だった時に、クラスメートの男たちが喧嘩をしていた。明らかに華奢な、優等生の男が、別の男の髪を掴んで動きを封じるのを凝視しながら、女は、父親が作ってくれたお浸しを噛んでいた。噛めば噛むほど草の汁が滲み出て、口腔に染み広がる。心なしか、父親の煙草臭いスーツに包まれた気分になる。咀嚼音は次第に汚くなり、ほとんど唾液の味しかしなくなる頃に、女の美食欲は満たされた。

 

その女が、今は髪を鷲掴みにされている。骨張った分厚いこぶし。男はこぶしを揺さぶり、女を鏡に引き寄せた。勢いのあまり、額が鏡に激突する。ちょうど大きめの歯磨き粉の塊がそこにあったが、あっけなく洗面台に飛び散った。

額の流血を感じながら、女は、喜びを感じた。頭髪が強く引っ張られるために頭皮は伸び始めており、その異様な美しさに、女はたまらず嘔吐した。男の方は、ますます手の力を強め、にやけが溢れるのを抑えることができなかった。だらしなく口角がつり上がる。

 

お互いが、お互いを、美しいと感じた。人間は、醜いからこそ美しい。二人は、人生に同じ類の救いを見出していた。逆に、過剰に幸福であれば、失うことは恐怖となる。女は嫉妬深く、男は独占欲が強かった。女は、感情のまま男に噛みつき、男は、女を罵り、傷つけた。洗面台にはいつも接着剤が置かれているが、開栓されたことはない。今日も女は、それで男と自分を貼り付けようとしたが、男に身体の自由を奪われていたため、ただ嗚咽し続けるだけであった。

「赦して」

女の、北国の湖水のような心に、その言葉は生暖かい錨となって投じられた。水飛沫が、純情な傷に沁みる。

 

男は、手を離した。

 

 

夕飯が始まった。鍋はすでに冷めている。中古で買ったスピーカーで音楽を流しながら、女は箸を進めた。特に音楽にこだわりはなく、好きなものを聞かれたら、広く浅くと答えた。普段もランダムに曲を再生し、その時はSlintの曲が流れていた。

女は、寂しくなると母親に電話をよくかけた。その日もいつも通り、電話をかけた。

 

女にとっては屈辱的なことだったが、性的な寂しさを覚える夜もあった。女は自分の受動的な愛を自覚していた。男に抱かれることによって女は喜びを感じたし、抱かれる自分を、男の目を通して見つめることで、興奮を得た。その瞬間、男の肉体は目に映らぬ。男は自分を抱く肉塊でしかなく、退廃的な欲望はすべて、抱かれる自分の中にあった。男は時に口淫を女に強いたが、その時も女は、服従する自らに陶酔していた。美味しいなどと喘いでいたが、正直、生暖かい色褪せた塩味で、むにゅりとしたそれを美味しいとは思えなかった。男の恍惚たる実在の中に、人に快楽を与える道具としての自らの価値を見出し、征服される我が肉体と精神に、女は、陶酔し続けた。

抱く・抱かれるの関係は、当然のように暴力の関係へと昇華された。殴られる快楽は、常に男の目を介して女に与えられた。男の目の中で、女は自らを殴り、殴られる女を見つめ、流れる血を舐め、満足した。たとえ満足できなくても、男が、殴られる女に興奮し、血を舐め、射精したという事実だけで十分であった。

本当は男を愛しているのではなく、自分を愛しているだけじゃないかしら?本当は自分はサディストなんじゃないかしら?とかつては思い悩んだ。

だが、愛は果たして必要だろうか?

愛は、いつも女の欲するものの一つであったが、遂にそれは達成され得ない世界の住人であるような気がした。

 

シャワーを浴びると酔いが幾分冷める。受動的な性行為は、快楽とともに自分の身体が穢されていく感覚も女に与える。女は自身の肉体が男性と定義されることは自覚していたし、その自覚と甘受によって、通常の社会生活を送ることができていた。つまり、同じ性別の身体が交わることに、依然女は強烈な嫌悪感を示していたのだ。

心の性別がグラデーションであるというのは女にとっては真っ赤な嘘であった。ただ、肉体は常に一つであった。プラトンは『饗宴』の中で、人間がかつて球状の両性具有であった話を記しているが、自分の状態を考えるとそれも嘘であった。片方がもう片方の性別を求めるのであれば、女にはこれ以上人間は必要ないはずであるからだ。しかし女は依然、人を求めた。

 

石鹸で念入りに体を洗いながら、女は浴室の前にある珪藻土マットのことを思い出していた。帰宅すると、そのマットから男の足が突き出ていることがある。それは自らの毛むくじゃらの足で、赤いハイヒールを履いている。ドラッグクイーンについての映画も観たことはあったが、それによってその足への嫌悪感が変わることはなかった。

足は高く掲げられている。爪の隙間に挟まった埃は、古いチーズのような臭いを漂わせ、浴室に女が溜め込んだノスタルジイを黄ばませてしまう。この臭いが、女の脳を浸蝕する。それは、女が男に首を絞められた時の視界のような、或いはとめどなく漏れ続ける記憶に衰弱した神経のような、遥かなる白い世界である。日頃自尊心を高め、友人と自己防衛をし合い、人としての尊厳、社会的地位を築き上げている、理性というものは、一瞬にして瓦解する。自分が、男であることにも、女はこの時に気付く。

女はまずそのもじゃもじゃのすね毛をバリカンで刈り上げる。次に生卵と刈り落した毛をかき混ぜ、白胡麻をまぶす。さらに醤油とみりん、白だしを混ぜ合わせたのち、にんにくを一片沈め、冷蔵庫にしまう。食べずに忘れて腐らせることもあるし、何らかの調理を加えて食べることもある。前回は、鍋でクミンシードと共に加熱していたところ、焦がしてしまった。体毛の燃える臭いは、初老の男性の皮脂と賞味期限切れのバターと秋刀魚の内臓を混ぜて炒めたような臭いであった。その芳醇な香りは小さなキッチンに充満し、女の恋心をも焦がした。女がその炭化した物体を何に使ったのかは、打ち明けることはできない。

 

 

その晩は、珍しく夢を見た。

 

女は、銀色の野原にいた。母親が自分の名を呼ぶ声。小学校の頃に履いていた黄色いスニーカーを履いていることに気付く。幼少期の夢だろうか。

時間はわからない。初めは銀色の眩しさで空が見えなかったが、次第に目が慣れていくと、空の色は常に変化しているようだと知った。暗くなれば赤や青の星が散在して見える。明るくなれば芋虫のように重たい雲が空を這いずるのが見える。女は芋虫の数を両手で数え始める。芋虫たちは、這いずる内に銀色のネズミとなった。口は大きく開き、その朱色の口腔内に、様々な色の数字が吸い込まれていく。母親が遠くで泣きじゃくるのが見えた。女は、ネズミを殺さねばならぬと悟った。

空を飛ぶ夢には二種類あり、一つは鳥のごとく自由に空を駆け巡る夢、もう一つは溺れそうになりながらもがく夢であるが、その時は全く進まない自転車を必死に漕ぐようにして、女はネズミを目指した。

辿り着くと、ネズミたちはこぶしほどの大きさでしかなく、茶色い机の上に寝ていた。ネズミを安楽死させるには頸椎脱臼を行う必要がある。左手で一匹の頭骨を押さえつけ、右手で尾を掴む。この小さい体にこれほどの力があるのかと、押さえつけながら女は驚く。それから、男に首を絞められる自分の姿を思い出す。死は救済なのだろうか?そこに恍惚はあるのだろうか?自分が倒れる前に、女は勢いよく右手を引いた。ところがその瞬間、ネズミが大きく体を捻ったため、頸椎脱臼は失敗した。代わりに背骨が折れ、ぴくぴくと身体を破壊されたネズミが這い逃げようとする。逃げたところでこの体では何時間もつのだろうか?女は慌てて頭骨を押さえ直し、再び尾を引っ張った。すでに精神の限界に達しており、何かの歌を歌っている自分を辛うじて認識できるが、それでも涙がこぼれ続ける。

息絶えたネズミは、頭骨を強く押さえつけられていたために目を閉じているが、すぐにまぶたが開く。女と目が合い、女は激しい悪寒とともに自らの前歯が折れるのを感じた。死後、しばらく痙攣し続けるネズミを目に焼き付け、女は、暴力と恍惚に揺れる自分を目一杯殴った。母親が自分の名を呼ぶ声。振り返ることはせずに、女はネズミを殺し続けた。

 

大量の汗と涙ともに、女は目覚めた。午前6時26分である。