酔記

美に殉死 愛の闘争

 「今」の感覚はいつからあっただろうか。

普段生きている間、意識されることはほとんどない。たまに意識される時が勝手に訪れる、或いは意識する。

 連続しているかのような時間を、分断し分断し分断し続ける。0のようで0でない、この瞬間をやっと感じたと思ったら既にそれはもう存在しない。否、「今」は常に此処にあり、それが世界の全てなのだが、同時に常に消えゆく。

 或いは「生」の感覚と呼んでも良い。今を意識する時、必ず死の影がそこにはある。殆どの人は死ぬ瞬間を恐れるが、死ぬ人間にとって死は「今」なのであり、我々はまだ死んでいないというだけのことなのだ。もっとシンプルにいうと、「今」の感覚は、どこまでも「生」の中にしかない。


 高校生の時は、この感覚と他者の自己の感覚を重ね合わせることもよくしていた。すなわち、他人にとってはその人が自分であるという不思議な事実とこれをただ重ねるのである。

 友人と顔を合わせる、話す、遊ぶ。その刹那、私の今はそこにあるが、同時に、友人の今もそこにある。寧ろ、友人にとっては、その人が自己として世界は今なのである。私は他者に過ぎない。私の知らぬその人の此処までの長い人生の中で、常に終着点は「今」にあり、私も今はそこに居合わせている。

ただこのことを意識して、友人の顔を見る。いつもと違う風に感じられることもあればそうでないこともあるが、そうした感覚、時間を私は好んだ。


 この話で特に伝えたいことはない。このような感覚がたまに意識されるという一種のメモに過ぎないし、実のところかなり眠いので、今日はもう寝ようと思う。残念なことに、夢の中ではまだ「今」を意識できたことがない……

 ではおやすみなさい。