酔記

美に殉死 愛の闘争

ヴェール

酩酊は俺をどこにも連れてゆかない
接吻の冷たい痛みに震えながら
冷たいというのはこんなに美しかったっけと
俺はもう一度、背中を丸めた

眼下の闇にはだだっ広い河原が息をしていて
育ちの良いレース刺繍は呆気なくほどかれてゆく

俺は正直飽き飽きしている
愛の啄ばみも 質素な常識も
インテリの黄色い笑顔も
澄み渡る虚栄も
なにひとつ、俺の瞳孔に値しない

なにひとつ

俺は暗闇に唇を探した
いつの間にレースはほどけきって
彼女の白い肉が川に濡れていた


真に耐えがたいのは、腐敗ではなく、停滞である


夜明け前の濃厚な静けさに
小さな肉体が流れてゆくのを見届けると

大衆が忘れ去った凍てつく接吻を
俺もまた川に放り投げて
太陽の梯子を待った……

キャンバス

まっ白なキャンバスの
まっ白な真ん中に
俺はぽっかり浮いている
またとない有象無象の夢が
瞬くように泳いでは消え
放縦なヴィーナスの如く
冷たい布地に跳ね散る

(暗転)

まっ黒なキャンバスの
まっ黒な真ん中に
俺はぽっかり浮いている
またとない有象無象の夢が
瞬くように泳いでは消え
放縦なヴィーナスの如く
冷たい布地に跳ね散る

世界は、ここにはない
誰かに奪われた小さな生活が
徒に膨張しているのだ
誰かに忘れ去られた小さな生活が
揺り籠に死んでいるのだ

たくさん、たくさん、諦めた
はやく、はやく、駆け抜けた
おおきな、おおきな、明日のために
ちいさな、ちいさな、昨日を捨てた

そうさ、ちいさな、ちいさな……

まっさらなキャンバスの
まっさらな真ん中に
わたしはぽっかり浮いている
あなたとぽっかり浮いている

ダビデ

君は石だ
鏡に非対称性を捧げ
酔い潰れたメデューサの紅い毛髪の
朽ち果てた瞳の重さを受け止める

太陽を月を
とてつもなく大きな光を人々は称揚するが
誰にも見えないのだろう
対称性の向こうに消えそうな目の輝きを
眩い嘆きを

燃え尽きた命の星を蹴り飛ばして
夜の果てに眼光を捨てる
そんな日々を嘗ては過ごした

酒を絶やしてはならぬ
そう笑う君は太古の血潮だった
誰の目にも触れられぬ
遠い太古の結晶だった

幻覚と散逸構造が唯一の友人で
毎日毎日、鏡のワルツを眺めた
少女は泣き、少年は斃れた
ようやく夕焼け雲が彼らの帰路を閉ざす

下らぬ言葉はやめだ
万物の平等と中庸主義の美徳は
後ろめたさすら残さずに今日の果実を貪る
鏡でも見たまえ

君は美しいだろうか

その通り 永遠の大通りは大火を灯して消えた
すっかり存在が消滅した

離れゆく快楽の懐に
俺は真っ白なダビデを破砕した

蜘蛛の糸

きらびやかな嘘の潮風に
零れ落ちた太陽のしずくを探して
錆びた始発列車に飛び乗った

昨晩からどうにも内臓は愛情に飢えて
力なく千切れた脳をぶらりぶらりと引っかけたまま
どれが本当の俺なんだろうと朝まで問う

咎めたければ咎めれば良いさ
俺は窓外に目をやった

肉体のなんと無駄なことだろう

朝日に濁る列車の窓に薄汚い少女の声が乱反射する

肉体のなんと無駄なことだろう
声は蘇った

鬱血した肺を解放すべく
声は蘇った

通りで解らぬわけだ
文明の速度の狭間に俺は舞台袖を見た
吐き気がするほどの蜘蛛の巣に
個人主義が無様に揺られていた
あらゆる声と鼻水の糸は
沈黙の絨毯に織り込まれていった

滑稽なパレード!

俺は音もなく嗤った
もはやその必要もないくらいに、眩ゆかったのだから

大昔の映写機のように
しずくと列車は海に照らされ続けた

呼吸

光は追わなければならぬ
それは盲従ではなく、純心の淘汰である

淡い出来心で駆け上る
ガラスの慈悲の螺旋階段は
どこへも通ずることなく
造花の薔薇の台座となる

消えゆく光のボルボックス
痙攣する薔薇に重ねて
押し返す粘性の情熱を
閉じた瞼に乗せた

早朝の青さと夜の残酷さが
互いの名を呼ぶ束の間
貴方の頭髪や、眼球や唇は
色を放ち酸素の海を抱く

或いは生の寝返りを太陽に託すことで
人は人となり時は時となるのだ

あの、蠢く大きな灼熱の嘘に

悪い夢I

地獄の隅をモンシロチョウが舞う
剥がれ落ちた虚栄の粒は
二度と帰らぬ鱗粉となる

深緑の表層は裸の真珠に呑まれ
形骸化した蹄が風のリボンを踏みしだく
この地獄を眼前にして
清澄たる翅は異国の波となるという

(オレンジ色の無人島)

めくるめくエントロピーの砂塵に
安らかに身を委ねて
液体金属の脆い母性は
永劫の音を奏で溶けてゆく

もう大丈夫…

安堵は翅を毟り去る