酔記

美に殉死 愛の闘争

自転車を捨てかけた話

五年半乗った自転車を遂に捨てることにした。走行距離はおそらく少なくとも6000㎞超とかだろうか、ブレーキやら車軸やら様々な部分の不調が増え始め、修理費がかさむからと自転車屋に買い替えることを勧められたのである。
新しい自転車選びは少しワクワクするもので、なんとなく目当ての品も決まった。廃棄処分の方法なども調べ、自転車屋に向かう道中、学部時代散々京都で乗り回した自転車のことを懐古していた。

ご存知の方も多いかもしれないが、私の自転車は明るい水色のママチャリである。私の古臭い服装と合うものでは到底なく、自転車が浮いてるとか可愛いとかダサいとか何度も人にツッコまれたが、京都に住み始め自転車を買うにあたり、店内で一番安い変速自転車を選んだ結果の色であった。

 

(写真:水色の自転車と私)

 

水色の自転車。よく乗っていた。なるべく交通費を節約したくて、基本的にどこに行くにも自転車だった。大学はもちろん鴨川デルタ、一乗寺、岩倉、河原町木屋町公園、二条、東山、西院、京都駅、色々な場所の記憶に自転車は大抵いた。下宿したての時期に孤独に耐えられず粟田山まで夜中に走ったこと(途中まで登ったが怖くなって帰った)、鴨川沿いで歌いながら乗ったこと(よくけたみんとかとしてたな)、バイト帰りに御所沿いを自転車を抱えて走ったこと(バキにハマってた時期ですね)、ハンドルをスポーツハンドルに付け直したこと(自転車屋で叱られた)、台風の中漕いだこと(スーツずぶ濡れになった)、木幡でのバンド錬のために山を越え30km走ったこと(毎週末30km走ってる友人、改めて凄い)、或いはかごに乗せた鞄、古着、ウヰスキー、椅子、ぬいぐるみ(ピッツェ)、片手持ちしたケーキ、ビール、NFのデカいべニヤ板、無数に記憶は蘇る。大阪に来てからも毎日ラボの往路復路を共にしている。半ば相棒のような存在だったのかもしれない。おそらく京都で下宿してた人の多くは、自転車のことを思い出すと無限に記憶がこぼれてくるのではないだろうか。
しかし感傷的に過去を美しく振り返る一方で、思い返せば最低限の手入れはしていたものの随分雑に自転車を扱っていた。雨の中も走ったり野晒しにしたりしてたし、駐輪場でなく茂みとか公園とか適当なところによく停めていたし(撤去は一度しかされたことがない)、色が不満で盗まれないかなとか早く買い替えたいとか思ったこともあった。大阪に来てから精神崩壊していた時期に一度だけ帰路自転車を投げ倒したこともあった(本当に自転車には悪かった)。
単純繊細な人間なので色々思い返したらなんだか泣きそうになった。あれだけ色々なところにいつも一緒に行っていたのに、俺は……。
これじゃ恋人との別れ際の阿保人間そのものだ。失って初めて大切さに気付く。本当に間抜けだなあ。

たかが物質的存在だが、記憶と結びつくとこうも大きな存在になりうるのか。
似たような感覚を、祖父の遺品のジャンパーや鞄、フィルムカメラを引き取った時に思った。古着なんてこれまでに散々着てきたけれど、祖父が着ていたものだと思って着ると、祖父が見ていた世界が感じられるようで、なんだか嬉しかった。カメラのファインダーから見える世界なんて言うとベタだが、祖父が見ていた世界の枠組みとしてあまりに直接的だ。或いはこの鞄を持って会社とか行ってたのかなあとかいろいろなことを考えてしまう。ジャンパーのほつれた縫い目を縫いなおしたり、鞄の持ち手を修理したり(修理屋に持っていったら18000円と言われたので百均で接着剤を買って直した。全然使えるようになったので良かった)、なんとか大事にしようとしている。カメラも、修理するより中古で買う方が安いかもしれないが、友人の勧めもあり近々オーバーホールに出しに行く予定だ。

物に愛着をもって大事に使うということ。自分はどれほどできていただろうか。
ふと古着に対する私の感覚が思い出された。

私が古着を好むのは色々な理由があり、聞かれたら、古いファッションが好きだからとか、安いからとか答えているが、感覚的なものもあるなと最近気づいた。
行動を衣服に対する金銭感覚によって制限されたくないのである。具体的に言うと、いつでもその辺で寝転んだりできる状態にありたいのだ。高い服を着ていると、どうしても汚しちゃいけないとか大事な時だけ着ようとかそういう感覚に陥る。もっとも私はスーツが大好きであり、お気に入りのスーツでスープを食べる時などは注意を払うし、いつの日か高級スーツやコートをオーダーでもしたらひょっとすると外で寝なくなってしまうかもしれないし(外で寝るな)、物を大事に長く使う魅力は靴などで既に知っているのだが、日常においては気軽になんでもできる自由状態にありたいし、むしろ大事なものほど使ってなんぼとかすら思ったりもする(アクアスキュータムのトレンチで地面に寝そべったり持ってる一番高い靴で鴨川デルタを走ったり平気でしてしまう)。個人的には、良い意味で雑に使うというか、自分の身体的生活に馴染ませるのは結構好きなのだ。
反面、いわゆる物を大事にするということに関しては消極的な部分もあったかもしれない。古着の裾上げやボタン縫い付け、補修など裁縫ばかりしているが、これも結局、あるものでどうにかする、金をかけずに楽しむ、やりくりするのが好きかつ得意と自負してるからだろうか。これについては遊びに関しても思うもので、金をかけた飲み会や遊びはそりゃ楽しいのだが、結局金がかかることをしなくても楽しい飲みや遊びがとても好きなのだ。どちらが良い悪いという話でなく、単なる好みの話である。隣にいる人と同じ世界や時間を共有しているという感覚は、お金がなくても得うるもので、私が欲しているのはそれなのである。むしろ、金に頼っていない時にこそ感じる何かが愛おしいのだ。
ということは、古着を直していたのも物の愛着とかではなくて、単に自分がなんとかある物で、安い物で間に合わせる欲求を満たすためだったのだろうか。
なんてことも思ったりもするが、頑張って直した衣服たちや、安く買った中古品などを思い返すと、愛着がないわけではないというか、むしろある。論理的に線引きできるものでもないようだ。文章としては申し訳ないが、まあ生きてたらこんなものだと思うし許していただきたい。

水色の自転車は、色が馴染まないという理由だけで少し自分の中で愛着が薄かったのだと思う。しかし長い時間一緒に過ごす中で、黙っていつも傍にいるやつみたいな存在になった、みたいな具合だろうか。修理費がかさみ、何かあったら危ないからという理由で捨てようとしているわけだが(ブレーキがほとんど効かなくなった時は本当に焦った。こんなので死にたくない)、正直今のところまだ走る。
本当に色々なところに連れて行ってくれたな……なのに俺は…俺は……。


「…………捨てるのやめよう。」


嗚呼なんという単純人間。しかしなんかスッキリした。とりあえず修理可能か自転車屋にまた持ち込んで相談するか……。

結局私は自転車屋に向かう道を引き返した。


ものすごいありふれたことだけど、今あるものとか今いる人とかを大事にすることについて、もっと自分の中で考えを温かくしたいと思いました。
急に寒くなってきましたが皆様もご自愛ください。また遊ぼうね。