最近恐ろしく忙しい。正確には、忙しいということを認識し始めた。
よく忙しいとこぼす人を非難する人がいるが、僕にはよく分からない感覚である。彼らの言い分としては、みんな忙しいんだから自分だけ不平をこぼすなだの、そんなのは忙しいに入らないだの、騒ぐわりにこんなことする余裕はあるじゃないかだのということらしい。人の苦悩に対しても同じようなことを喚く人すらいるが、はっきり言ってしまうとそういう感性はよく分からないどころか辟易してしまいそうになる。そもそも人の感受性というものは多種多様なのだから、比べうるものではないだろうし、みんな忙しかったり苦しかったりするなら、そのことを押し隠す美徳とは、漏らした人に対する非難とは、いったいぜんたいなんなのだろうか。
こんな前置きをしておきながら、最近特段忙しい理由については教師を目指し始めたことと大学院生活とのせいだくらいの説明にとどめておく。教職取得に関してはかなり面倒くさい状況でのスタートなのだが、教師になりたいのに教師になる過程に文句をこぼすことの是非について今は考える余裕がないので黙っておこうという次第である。
先日誕生日を迎え、もう二十五歳になってしまった。父親から祝いのLINEをもらったのだが、二十五になるとしなければいけないことがしたいことより多くなって大変だろうが、したいことの方が本当は大切なのだから、なんとかうまく頑張ってくれという旨が記されていた。
僕はこれを読んで結構感動したもので、忙しさについての認識が決定的に変わることになったのである。もっとも、この認識の変化の予兆はしばらく前から現れていた。
京都市左京区に、白馬亭という場所がある。白馬亭の亭主によると、白馬亭はみんなのパブということであり、まったくその通りなのであるが、食べログやグーグルマップに載っているような飲食店というわけでもない。初めてそこを訪れた夜、八畳ほどの空間に奇人数名、私はタキシードにて酩酊といった内容のツイートをした記憶がある。ただし正確に八畳なのかはわからぬし、奇人数名というのはその夜の僕が抱いた印象であって、実際は百人以上の非常にまっすぐでいささか不器用な心優しい人たちからなる界隈であり、ウヰスキーを飲んだり歌を歌ったり食事を共にしたり揉めたり散歩したりピートを掘ったりと、生活の謳歌に忙しい界隈なのだ。さて僕も初めのうちは、「こっちはウイスキー飲むので忙しいんだから」などといった亭主たちのセリフは悉く冗談なのだろうと思って笑っていたのだが、言っている本人は至ってまじめな顔なのである。ところが研究室だのなんだので忙しくしながらも間を縫って白馬亭に顔を出す中で、次第に彼らの真実が体に入り始める。そうして身体にしみ込んだものを、父親の言葉がはっきりとしたものにしてくれたわけである。
ここまで読まれたらわざわざ言葉にする必要もないのかもしれないが、要するに、したいことをするだけで、僕たちの人生はいっぱいいっぱいなのである。しなければならないことが、別にしたいことという訳でもない場合、すべきことというのは大抵したいことをするためだけに存在するのであって、結局究極の目的はしたいことをすることなのだ。したいことをするのに人生の時間は十分ではない(大体いつ自分が死ぬかなんてわからないもので、今この瞬間にも隕石かなにかで僕も死ぬかもしれないのだ)にも関わらず、したくもないのにするべきことがさらに人生に押し込まれていく。こんな状況に直面して、「ウイスキーで忙しいのに」だの「大事な人たちと暇するので忙しいのに」といった言葉が出てくるのは、ごくごく健康的なことではなかろうか。
恐ろしいことに、するべきことに疲弊してしまうと、したいことがそもそもできなくなってしまう。今学期僕は、研究室があるキャンパスと教職授業を受けるキャンパスとの間を学内バスで往復する生活を送っており、帰りのバスで本を読んだり曲を作ったりすることを日々の癒しにしようと目論んでいたのだが、いざ始まって一週間経ってみると、文字は頭に入らなくなるしメロディも歌詞もまったく出てこない、おまけにバス内の男女のいちゃいちゃ話にいらいらするなんていう極めて心の余裕のない状態になってしまい、かなりがっかりしている次第である。
もっとも、教師になるという、遅めながらもはっきりと自分の中に生まれた夢を信じているので、できるだけ頑張ってやろうという意気込みはあるのだが、やはり忙しいことには変わりがない。
もとよりウイスキーを飲んだり大事な人たちと過ごしたり芸術をかじろうとしたり生活そのものを送ったりと忙しいのに、さらに授業だの研究だのが入ってきて大変なわけだが、つべこべ言うのはここまでにしてとぼとぼと頑張っていこうと思うので、ひっそり応援していただければ幸いである。皆さんも大変忙しいことと思うし、忙しくしなければしたいことができない社会や人生そのものにうんざりしてしまうが、悪態をつきながらもまたゆっくり一緒に過ごす時を楽しみに、人生を前向きに消費していきたいものだ。