酔記

美に殉死 愛の闘争

言葉が憎いことについて

 先日、言葉が憎い、と酔ってツイートしたが、シャワーを浴びた後にツイートを消した。僕自身が言葉を大事にしたいとよく思っているし、言葉に救われたことも何度もある。言葉を紡ぐ人が好きだし、言葉によって生み出される世界が好きだ。すべて語りきることはできない。ただ、ツイッターにはたくさんの人がいて、その中には僕のその言葉で傷ついたり不快になったりする人が絶対にいると感じたので、消した。すべての傷を防ぐのは難しいが、気づけるなら気づけるだけ減らしたいとは思っている。

 

 だけれども、その瞬間、たとえ酔っていたとしても、言葉が憎い、と感じたのは紛れもない事実だ。ツイートにはその瞬間の感情を吐き出すという側面があると考えているので、気にせず呟いてもいいじゃんとも思う。その一方で、ツイッターを舞台と捉えて、何を呟くべきか迷うこともある。その一言で、自分自身がそういう価値観なのだと固定的に捉えられるのもまた、怖い。

 

 人間は言葉を獲得したが、言葉がすべてを語りえないように、僕は感じている。言葉には対象を規定する性質がある。その認識が共通であるという前提の下、我々の会話は成立する。論理もそうだ。論理的な話は理解しやすい。言葉や論理を自在に操ることが、求められているような気がして今まで生きてきたし、今もそう思っている。

 

 だが、言葉で、論理で、その人の何がわかるんだろう。もちろん、言葉がなかったらわかることはもっと少ないだろう。好きなことは何か、どういう人生を歩んできたのか、そうしたことは言葉によってかなり伝えることができる。でも肝心の(と僕は思う)、何を考えているか、については、どうなんだろう(いま読み直した。詩や歌、文学、あらゆる手段でその人の考え、感情は爆発のように伝えることすらできることを思いだした。だから、論理的にどうこうではない。目、表情、声、そうした要素でしか伝わらないこと、そうした要素を以てしても伝わらないことを、想って、こう書いていた。)。論理も言葉も、いくらでもその人の真実からずれることができる。時にその人すら気づいていないことを隠してしまうのも、言葉だと思っている。僕が文章を明快に書こうとするとき、わかりやすくなるにつれて、自分の心とは平行に逸脱した何かを生み出しているのではないかと不安になることもある。あるいは、自分で分かった気になって自分の考えを言葉の鋳型に入れるけれど、漏れ出たものや、そもそも掬えていないものがあるんじゃないかとも思う。言葉で伝えられない、どうしようもなくドロドロして、うごめいて、爆発しそうな感情なんてものもある。うまく伝える手段が言葉以外にあればよいのだが、僕にはなかなか難しくて、呻いたり、相手を見つめたり、代わりになりそうな、漠然とした言葉を選んだりするしかなくなる。

 

(この文章は、あえて論理構成を気にしないで書いている。だから、めちゃくちゃだし、読みにくいかもしれない。僕が帰路に脳内でぐるぐるぼんやり考えていたことをそのまま言葉にしようとしている。これでも、多少気にしてまとめようとしたり、繋がりを考えてしまったりしている方なのだ。脳内をさらけ出すような行為を試みるのは、ずっと怖いことだった。この人は何も考えていないなと思われるのが怖いからだ。あるいは、こういう考え方をする人は嫌いだと思われるのが怖いからだ。あるいは、時間が経って振り返ったときに恥ずかしくなることもあるからだ。あるいは、もっと他のことだ。しかし、少なくとも今この瞬間僕が何を考えたところでそれはそれ以上でもそれ以下でもないし、背伸びしたり隠したりしてもどうなんだろうとも思う。そもそも背伸びとか考えてないとかってなんなんだ?お前は誰?みんないつか死ぬのだ。もしかすると、ただ、僕は自分が生きている証を得たいだけなのかもしれない。とにかく。)

 

 そもそも人間は矛盾だらけだ。と書きたいところだが、主語が大きくなるとこれまた誰かを害するし、実際は僕自身が自分の中に矛盾を見出していて、僕が接してきた人たちにも同じようなことを思うだけなので訂正する。僕は矛盾している。AだからBだと思えば、CだからBじゃないとも思うし、DだからBなのであってAだからBなのではないかもしれないとも思う。要するにごちゃごちゃしている。時間が経つにつれて変わる考えもある。人と話して変わることもある。何もない時もある。

 

そう、何もない。でも、ここにいる。

 

あなたも、そこに、いる。

 

言葉を交わす。あるいは、顔を覗き合う。

 

何もないのに、言葉は生まれることもあるし、何かがあったのに、生まれないこともある。伝わることも伝わらないこともある。どっちか、あるいは両方が幸せになることもあれば、傷つくこともある。何もないときもある。瞬間瞬間で移ろう。なんなんだ?と思う。

 

あなたが、そこに、いる。

わたしが、ここに、いる。

 

言葉を交わした、顔を覗き合った、感情が流れ込んだ。

それで十分じゃない?

 

なぜ求めてしまうのか。言葉をその人に。言葉にその人を。

 

言葉は確かに大事にしたい。けれども、その前提に、その人の存在そのものへの愛があってほしいし、それを忘れたくはない。あなたやわたしは、存在するだけで十分だと信じているので。