自然科学は、自己存在と世界(ここでは思い切ってこの二つを並列する)の理解、その宿命の受容に必要な、謂わば冷淡な救済であった。そして芸術とは、慈悲深く美しい呪いである。不完全という緻密な奇跡によって飾られた生命は、必ずしも我々の存在を称揚する訳でもなく、内臓や骨や脳をいくら分解したところでクラゲ的な領域は増えるばかりで、全ては死に向かうのみなのだ。
自転車を止めて、吸う、空気を。夏盛り。汗。ショパンの旋律を耳から拭い去り、代わりに輪廻転生を歌う。それも群青色の。
歌など要らぬ。音すら、本当は要らないのだ。
連続性の骸がセルロース製であれプラスチック製であれ、一度情熱を注ぎ入れた以上、我々は等しく海を目指すことになる。そう、砂浜は裸足で歩くには熱く滑らか過ぎるため、人々はビーチサンダルを履く。一切の合意を連続的に、かつ先天的に得ていると信じるその無意識に、一縷の希望と一抹の不安を、"私"は、抱き続けてしまう。
あたらしいじだいだ。つねにあたらしい。
あなたらしさをもとめるくせに、あなたがいることがあたりまえなじだい。
おかしいよな。
実におかしい。そこで、たまには朝からウヰスキーをと思うが、今は免許合宿中で禁酒しているので飲めない。
最近急に寒くなってきましたね。
(デニム上下で二週間乗り切るつもりだったが余りに寒いのでリサイクルショップへコート探しに出た。結局OasisのCDと100円のサングラスとファッション雑誌だけ買って帰ってきた。ファッション雑誌というものを買うのは初めてかもしれない。)
みなさんもかぜ、ひかないでね。