酔記

美に殉死 愛の闘争

セイレーンが啼く

セイレーンが啼く
陰惨な雨 憧憬の岩
虹色の甘藻を悴む指に
肌の粒 翼の鱗 すべて落ちて
屍の匂い いと芳しく

曇天を穿つ巨大なドリル
有機物の塊 したたる甘藻
歯車の動脈は膨れ上がり
轟轟たるその溝に鴎は卵を産み落とす
潰れぬように……

誰が守る?この巨大なドリルを
生命を抱えて軋む塊を
セイレーンが啼く
うなじ震わせ
セイレーンは啼く
喉涸れるまで

おお、クシュドメールよ

昨晩も亡骸を数えた

おお、クシュドメールよ

私は幸せ

だからお願い
中に来ないで
とっても、甘いでしょ?
それで良いの……

おお、クシュドメールよ
舌無き骸よ
気高き地獄よ

 

汝はなぜ此処に?

 

おお、クシュドメールよ
その、愛しい内臓

綻び

何も変わらぬ渋谷のビルジングのほとり

何もなかったように笑う

ぽつりぽつり風を縫って街灯が

汚い坂道を照らす内に

滔々と蠢く人混みは

善意も悪意も知らぬ

記憶とは名ばかり

約束もしらばくれて

肌を重ねて朝を迎える

 

セロハン

二杯のカクテル

戻らぬ後悔

馬連ねて

巻き戻し

 

涙の浮遊

シュリドーレジン

 

フィルムには何が残るだろう

燃やしてしまえそんなものは

幻影の蹂躙、心に宿り始めて

潑剌と温むこの夜

ガラスのささくれ

星を延べて佇む息遣い

ベージュの後ろ姿

紅に媚びて

すべてに溢れる物は

 

時の綻び

自転車を捨てかけた話

五年半乗った自転車を遂に捨てることにした。走行距離はおそらく少なくとも6000㎞超とかだろうか、ブレーキやら車軸やら様々な部分の不調が増え始め、修理費がかさむからと自転車屋に買い替えることを勧められたのである。
新しい自転車選びは少しワクワクするもので、なんとなく目当ての品も決まった。廃棄処分の方法なども調べ、自転車屋に向かう道中、学部時代散々京都で乗り回した自転車のことを懐古していた。

ご存知の方も多いかもしれないが、私の自転車は明るい水色のママチャリである。私の古臭い服装と合うものでは到底なく、自転車が浮いてるとか可愛いとかダサいとか何度も人にツッコまれたが、京都に住み始め自転車を買うにあたり、店内で一番安い変速自転車を選んだ結果の色であった。

 

(写真:水色の自転車と私)

 

水色の自転車。よく乗っていた。なるべく交通費を節約したくて、基本的にどこに行くにも自転車だった。大学はもちろん鴨川デルタ、一乗寺、岩倉、河原町木屋町公園、二条、東山、西院、京都駅、色々な場所の記憶に自転車は大抵いた。下宿したての時期に孤独に耐えられず粟田山まで夜中に走ったこと(途中まで登ったが怖くなって帰った)、鴨川沿いで歌いながら乗ったこと(よくけたみんとかとしてたな)、バイト帰りに御所沿いを自転車を抱えて走ったこと(バキにハマってた時期ですね)、ハンドルをスポーツハンドルに付け直したこと(自転車屋で叱られた)、台風の中漕いだこと(スーツずぶ濡れになった)、木幡でのバンド錬のために山を越え30km走ったこと(毎週末30km走ってる友人、改めて凄い)、或いはかごに乗せた鞄、古着、ウヰスキー、椅子、ぬいぐるみ(ピッツェ)、片手持ちしたケーキ、ビール、NFのデカいべニヤ板、無数に記憶は蘇る。大阪に来てからも毎日ラボの往路復路を共にしている。半ば相棒のような存在だったのかもしれない。おそらく京都で下宿してた人の多くは、自転車のことを思い出すと無限に記憶がこぼれてくるのではないだろうか。
しかし感傷的に過去を美しく振り返る一方で、思い返せば最低限の手入れはしていたものの随分雑に自転車を扱っていた。雨の中も走ったり野晒しにしたりしてたし、駐輪場でなく茂みとか公園とか適当なところによく停めていたし(撤去は一度しかされたことがない)、色が不満で盗まれないかなとか早く買い替えたいとか思ったこともあった。大阪に来てから精神崩壊していた時期に一度だけ帰路自転車を投げ倒したこともあった(本当に自転車には悪かった)。
単純繊細な人間なので色々思い返したらなんだか泣きそうになった。あれだけ色々なところにいつも一緒に行っていたのに、俺は……。
これじゃ恋人との別れ際の阿保人間そのものだ。失って初めて大切さに気付く。本当に間抜けだなあ。

たかが物質的存在だが、記憶と結びつくとこうも大きな存在になりうるのか。
似たような感覚を、祖父の遺品のジャンパーや鞄、フィルムカメラを引き取った時に思った。古着なんてこれまでに散々着てきたけれど、祖父が着ていたものだと思って着ると、祖父が見ていた世界が感じられるようで、なんだか嬉しかった。カメラのファインダーから見える世界なんて言うとベタだが、祖父が見ていた世界の枠組みとしてあまりに直接的だ。或いはこの鞄を持って会社とか行ってたのかなあとかいろいろなことを考えてしまう。ジャンパーのほつれた縫い目を縫いなおしたり、鞄の持ち手を修理したり(修理屋に持っていったら18000円と言われたので百均で接着剤を買って直した。全然使えるようになったので良かった)、なんとか大事にしようとしている。カメラも、修理するより中古で買う方が安いかもしれないが、友人の勧めもあり近々オーバーホールに出しに行く予定だ。

物に愛着をもって大事に使うということ。自分はどれほどできていただろうか。
ふと古着に対する私の感覚が思い出された。

私が古着を好むのは色々な理由があり、聞かれたら、古いファッションが好きだからとか、安いからとか答えているが、感覚的なものもあるなと最近気づいた。
行動を衣服に対する金銭感覚によって制限されたくないのである。具体的に言うと、いつでもその辺で寝転んだりできる状態にありたいのだ。高い服を着ていると、どうしても汚しちゃいけないとか大事な時だけ着ようとかそういう感覚に陥る。もっとも私はスーツが大好きであり、お気に入りのスーツでスープを食べる時などは注意を払うし、いつの日か高級スーツやコートをオーダーでもしたらひょっとすると外で寝なくなってしまうかもしれないし(外で寝るな)、物を大事に長く使う魅力は靴などで既に知っているのだが、日常においては気軽になんでもできる自由状態にありたいし、むしろ大事なものほど使ってなんぼとかすら思ったりもする(アクアスキュータムのトレンチで地面に寝そべったり持ってる一番高い靴で鴨川デルタを走ったり平気でしてしまう)。個人的には、良い意味で雑に使うというか、自分の身体的生活に馴染ませるのは結構好きなのだ。
反面、いわゆる物を大事にするということに関しては消極的な部分もあったかもしれない。古着の裾上げやボタン縫い付け、補修など裁縫ばかりしているが、これも結局、あるものでどうにかする、金をかけずに楽しむ、やりくりするのが好きかつ得意と自負してるからだろうか。これについては遊びに関しても思うもので、金をかけた飲み会や遊びはそりゃ楽しいのだが、結局金がかかることをしなくても楽しい飲みや遊びがとても好きなのだ。どちらが良い悪いという話でなく、単なる好みの話である。隣にいる人と同じ世界や時間を共有しているという感覚は、お金がなくても得うるもので、私が欲しているのはそれなのである。むしろ、金に頼っていない時にこそ感じる何かが愛おしいのだ。
ということは、古着を直していたのも物の愛着とかではなくて、単に自分がなんとかある物で、安い物で間に合わせる欲求を満たすためだったのだろうか。
なんてことも思ったりもするが、頑張って直した衣服たちや、安く買った中古品などを思い返すと、愛着がないわけではないというか、むしろある。論理的に線引きできるものでもないようだ。文章としては申し訳ないが、まあ生きてたらこんなものだと思うし許していただきたい。

水色の自転車は、色が馴染まないという理由だけで少し自分の中で愛着が薄かったのだと思う。しかし長い時間一緒に過ごす中で、黙っていつも傍にいるやつみたいな存在になった、みたいな具合だろうか。修理費がかさみ、何かあったら危ないからという理由で捨てようとしているわけだが(ブレーキがほとんど効かなくなった時は本当に焦った。こんなので死にたくない)、正直今のところまだ走る。
本当に色々なところに連れて行ってくれたな……なのに俺は…俺は……。


「…………捨てるのやめよう。」


嗚呼なんという単純人間。しかしなんかスッキリした。とりあえず修理可能か自転車屋にまた持ち込んで相談するか……。

結局私は自転車屋に向かう道を引き返した。


ものすごいありふれたことだけど、今あるものとか今いる人とかを大事にすることについて、もっと自分の中で考えを温かくしたいと思いました。
急に寒くなってきましたが皆様もご自愛ください。また遊ぼうね。

イソギンチャク

雨、降りそうだねって

ぎこちなく笑う

雨、空、暗い

だってそうだもの。世界はいつだって。

 

見えないのに見えるフリして

空っぽの橋を揺らしてる

 

見えてるのに見えないフリして

橋から落ちたのは、誰かしら?

 

残念ね

傘ならあげるわ

 

そうそう、それから

雨に濡れた髪は、エロいんだって

誰かが言ってた

黒髪が乱れて、ほどけて

ほんのり血が白くなるんだって

笑っちゃった

 

きっと何も知らないのね

貴方もいつか

イソギンチャクになるのに

青い青い、イソギンチャク

 

でも、ねえ

 

それじゃなんだかあんまりだわ

 

蛞蝓

紫色の三味線をかき鳴らして

スライム製の唇は雷を這う

錆びた鉄格子をなぞりながら

ぽきんぽきんとお辞儀する私は


嗚呼なめくじになりたい

苔むした心を蝕んで

赤い足跡引き摺りながら

うだるような健気さにただ無力

帰る場所は何処


優しく弦が切れる音だって

この耳には有り余る喧噪

せめて白カビを剝がしてから

陽の当たらぬ此処に来て


嗚呼なめくじになりたい

苔むした言葉を蝕んで

とめどなく雨に洗われ

塩に埋もれてべにょりべにょり

帰る場所は何処


嗚呼なめくじになりたい

決してあの日の絵は叶わない

ただぎしぎし鈍い日々は

毛穴を薄い粘膜で埋めゆく


胸騒ぎ、嘘交じり、丸被り


醒めざる陶器をまた今日も…

俺たちの全て

青天の霹靂

オレンジの街灯に沿って

形骸化した花火のような若さの瞬間が

一心不乱に駆け抜けてゆく


叶わぬものも去り散るものも

拾い集める暇なんてなくて

無慈悲な柔らかさは心を解放する


くだらねえ!日々のしずくよ

青臭い黴に魘された街の

夜のほとぼりを見たのか?

疼く湯煙のなお高く

善意の悪魔を貫くのを見たのか?


くだらねえ!俺に返せよ

金切り声に諂うように

幾度となく怒りを呑むのか?

穢れなき潤いの底に

忘れ去られた心を読むのか?


弔え!弔え!


それで良い


大丈夫

星空にいくらお前の四肢が広がったところで

俺の健啖なまどろみが揺れることはない

そしてそれは誰しもがそうなのだから


まごう事なき真実だけを口にしてくれ

それが俺たちにできる全てだから

殴り書き

殴り書き

みんな京都を去っていく。僕も含めてだ。関西にはいるし、東京の友人も未だに「京都に会いに行く」とか言ってくれる(京都に行きたいのか俺に会いたいのかは別として)が、京都にはいない。生活に鴨川がない。

あんだけ鴨川で話し込んだ彼も彼女もあいつもあの人も東京、大阪、各地に行ってしまった。東京も悪くない。育った街だから、知っている。東京も、好きだ。あの汚い文明の光は、ときたま人間の魂を妙に綺麗に映し出すから。


東京にいた頃は京都で暮らしてみたいと思っていたし、京都にいた頃はずっと鴨川にいたいと思っていたし、京都を離れた今は戻りたいと思っている。だけど、東京も良い街だし、結局どこに行っても人生は続く、人は去るし出会うし、街も同じだ。自分が死ぬまでの時間は自分だけのものであって、一度きりの命は、日々勝手に生きられていくので、思うままなされるがまま自分の人生は常にそこにある。


となると、果たして京都に残ろうという私の気持ちは、どうなのだろう、とか思う。


世界は広い、人生に答えはない、執着は時に美しく時に苦しみになる。もっと彷徨って彷徨って出会って別れて、生きてるうちにいろんなことを体にブチ染めたくないか?

鴨川が、京都が答えだなんて、早すぎる選択じゃないか?


たぶん、合ってるし間違ってる。


執着や固着はしたくない。死ぬのだから。それは美しさの放棄ではなく、安寧の悪い側面への恐怖だ。

僕は今の自分の部屋を愛してるし、所有物もかなりこだわっている。伸ばしてる髪も急に切られたらほとんど死んだように絶望するだろうし、物質的な鎖に繋がれ、それを愛してもいる。一方で、部屋が突然爆発して全部吹っ飛んだとしても生きていける気もする。命一つさえあればなんとかなる、と思う。

鴨川も京都もいつか消えるかもしれない。京都にずっといたら何か失うかもしれない。

色々思う、考える。


そして、こういうのは良くない。論理的正しさ、一般性、人との比較。いくらでも矛盾しうるし無限に枝が広がっている、どこにも辿り着けずぐるぐる、ぐるぐるしてしまう。


結局誰もわからんのだよな。自分の人生すら。何が起きて何が消えて、いつ死ぬのか、何がいいのか。未来とかわからねえ。


一般性とかもいいけど、結局人間の“高貴なる知能”も肉体に基づいている、というか、肉体がすべてです。精神も肉体もここに共局在している。分割しようがない。したけりゃ死後の世界だ。今の世界では少なくとも、肉体は精神から切れない。

肉体で感じていることが、当たり前だけどその人の人生のすべてになるんじゃないかなとか思う。

20代の僕が、京都に魂持ってかれてる、正しいか知らんし将来のこともわからん。けど、一回しかない人生の一回しかない20代でそれを感じるような人生になっている時点で、そこに対する絶対性とか肉体的真実は確実なものとして存在している。仮定とか推論とかの次元じゃなくて、特異的で不可逆的な生身の感触。人がどうとかじゃないよね、自分で感じてるものくらい自分で拾えよ!


京都には帰りたい。だからこれは大事にしていいと思う。少なくとも。

教師にもしなれたらすぐに京都に戻りたいが、まあうまくいかなくても仕方ないよね、人生生きてるんだからそりゃ仕方ない。色々起きて京都も嫌いになるかもしれんし。


結局その時その時生きるしかないんか?京都ってなんなん?鴨川とか本当に訳がわかんねえよ。なんであんな綺麗なんだよ、てかそもそも生きるってマジでなんなん?


なんか京都離れたいみたいになっちゃた、京都にいる気持ちってめちゃすごいことじゃね?!的な文書きたかったんだけどな、疲れたしもう言葉もちょぼちょぼになってきたのでここまでにします、出てこないときに無理やり力むとろくなことないからな。明日からまた授業だ、生活だ、人生睡眠で断続的になってるのマジでウケる。