酔記

美に殉死 愛の闘争

殴り書き

殴り書き

みんな京都を去っていく。僕も含めてだ。関西にはいるし、東京の友人も未だに「京都に会いに行く」とか言ってくれる(京都に行きたいのか俺に会いたいのかは別として)が、京都にはいない。生活に鴨川がない。

あんだけ鴨川で話し込んだ彼も彼女もあいつもあの人も東京、大阪、各地に行ってしまった。東京も悪くない。育った街だから、知っている。東京も、好きだ。あの汚い文明の光は、ときたま人間の魂を妙に綺麗に映し出すから。


東京にいた頃は京都で暮らしてみたいと思っていたし、京都にいた頃はずっと鴨川にいたいと思っていたし、京都を離れた今は戻りたいと思っている。だけど、東京も良い街だし、結局どこに行っても人生は続く、人は去るし出会うし、街も同じだ。自分が死ぬまでの時間は自分だけのものであって、一度きりの命は、日々勝手に生きられていくので、思うままなされるがまま自分の人生は常にそこにある。


となると、果たして京都に残ろうという私の気持ちは、どうなのだろう、とか思う。


世界は広い、人生に答えはない、執着は時に美しく時に苦しみになる。もっと彷徨って彷徨って出会って別れて、生きてるうちにいろんなことを体にブチ染めたくないか?

鴨川が、京都が答えだなんて、早すぎる選択じゃないか?


たぶん、合ってるし間違ってる。


執着や固着はしたくない。死ぬのだから。それは美しさの放棄ではなく、安寧の悪い側面への恐怖だ。

僕は今の自分の部屋を愛してるし、所有物もかなりこだわっている。伸ばしてる髪も急に切られたらほとんど死んだように絶望するだろうし、物質的な鎖に繋がれ、それを愛してもいる。一方で、部屋が突然爆発して全部吹っ飛んだとしても生きていける気もする。命一つさえあればなんとかなる、と思う。

鴨川も京都もいつか消えるかもしれない。京都にずっといたら何か失うかもしれない。

色々思う、考える。


そして、こういうのは良くない。論理的正しさ、一般性、人との比較。いくらでも矛盾しうるし無限に枝が広がっている、どこにも辿り着けずぐるぐる、ぐるぐるしてしまう。


結局誰もわからんのだよな。自分の人生すら。何が起きて何が消えて、いつ死ぬのか、何がいいのか。未来とかわからねえ。


一般性とかもいいけど、結局人間の“高貴なる知能”も肉体に基づいている、というか、肉体がすべてです。精神も肉体もここに共局在している。分割しようがない。したけりゃ死後の世界だ。今の世界では少なくとも、肉体は精神から切れない。

肉体で感じていることが、当たり前だけどその人の人生のすべてになるんじゃないかなとか思う。

20代の僕が、京都に魂持ってかれてる、正しいか知らんし将来のこともわからん。けど、一回しかない人生の一回しかない20代でそれを感じるような人生になっている時点で、そこに対する絶対性とか肉体的真実は確実なものとして存在している。仮定とか推論とかの次元じゃなくて、特異的で不可逆的な生身の感触。人がどうとかじゃないよね、自分で感じてるものくらい自分で拾えよ!


京都には帰りたい。だからこれは大事にしていいと思う。少なくとも。

教師にもしなれたらすぐに京都に戻りたいが、まあうまくいかなくても仕方ないよね、人生生きてるんだからそりゃ仕方ない。色々起きて京都も嫌いになるかもしれんし。


結局その時その時生きるしかないんか?京都ってなんなん?鴨川とか本当に訳がわかんねえよ。なんであんな綺麗なんだよ、てかそもそも生きるってマジでなんなん?


なんか京都離れたいみたいになっちゃた、京都にいる気持ちってめちゃすごいことじゃね?!的な文書きたかったんだけどな、疲れたしもう言葉もちょぼちょぼになってきたのでここまでにします、出てこないときに無理やり力むとろくなことないからな。明日からまた授業だ、生活だ、人生睡眠で断続的になってるのマジでウケる。