(君)あと何歩歩いたら月へゆけるのかしら?
(僕)月と地球は繋がってはいないよ。
そうかしら?と君は首を傾げる。月光は鱗粉となりその頸を流れ落ちゆく。青翠色に光る肌。
一月の寒さが空に降り積もって、淡いポートレートの内に、今夜の月をぴたりと封じている。
物憂げに塗りたくられた雲と夜空に、あらゆる信念と情熱を放り投げたくなった。
(君)ねえ、月の時間はあなたの時間と同じ?
沈黙。何を僕は想っただろうか。
ベランダがその時はどこか広く感じられた。ゆるく風が吹く。
熱を出した時によく見た夢——自分の肉体が膨張していって、溶解する金属となり、母親に包まれる安堵と不安に苦しむ夢——。それに似ていた。
或いは言葉を探す必要があったのかもしれない。世界の、すなわち自己の記述は最近躊躇われるものがあるのだが、少なくとも、彼女は僕に対してある種の誠意を見せてくれたのだから。
軽薄な眼を月に捧げながら、ベランダから飛び出す自分をイメージした。ドビュッシーを流しても、ビートルズを流しても、どこに行き着くのかはかなり明白だった。
当てのない旅路を一人で行くのは寂しい。せめて君もと思うが、万人が孤独の旅路という定めから逃れることはできないと、偉い人が言っていた。
(僕)月と地球は繋がっていないし、僕と月の時間も違うよ。
ようやく答えることができた。答えることはできた。だけれども、快楽と罪悪感の狭間で僕は壊れそうになっていた。
(君)そっか。
嗚呼、俺はいつもこうだ。そしてこうあるべき存在なのだ。月夜のベランダで全てが裏返しになるのを感じた。猛獣の毛皮を剥ぎ、血肉を露わにするような勢いで、全てが裏返る。
それでも明日はまた来るだろう。今の世界が永遠に続くわけはない。せめて、時計の針の隙間、それはとても危険な罠なのだが、そこに凡ゆる吐息を押し込めたいと、僕は願った。
そこでまた風が吹いたので、僕はウイスキーを注ぎ足した。二人分のテイスティング・グラス。脆い狂気と優しさは、じんわりと空に広がるようであった。
月と君を前に、あの小説家は本当は何と言っただろうか。誰が人を愛することができるのだろうか。
僕はそろそろ戻ろうと彼女に伝え、僕らの部屋に戻った。